始皇帝の求めた不老不死の薬
始皇帝は幾多の国に分裂していた中国大陸をひとつに統一し、秦王朝打ち立てました。そして、自らを皇帝と称し、始皇帝と呼ばれるようになります。
この始皇帝が行った政策で一番有名なものは、万里の長城の建造でしょうが、ちょっと目をそらすと、彼は不老不死の薬というものを大変に欲しがった皇帝として有名です。
不老不死という概念は、もともとは道教から生じたものだとされますが、なぜかというと、道教に登場する仙人というのがものすごく長命だからです。
ですから、始皇帝以前にも不老長寿を手に入れるために仙人の修行をした人はたくさんいますし、始皇帝の時代にもそのそのような修行者がたくさんいたことに想像はかたくありません。
このように道教の修行をしている(仙人の修行をしている)人間のことを方士といいます。
実は方士自体は特にふるい話ではなく、清王朝(ラストエンペラーで有名な中国で一番あたらしい王朝です)末期ですらたくさんいたのです。もしかしたら、今でもけっこういるのではないでしょうか。
その方士の中で、日本で一番有名なのは徐福だと思います。そして、秦の始皇帝が不老不死の薬を探しに行かせたのもこの徐福です。
史記秦始皇本紀には以下のような記述が見えます。
「斉の国の徐市(徐福)たちが言った。海中に蓬莱、方丈、瀛州という三つの神山があって、そこには仙人がいる……そこで始皇は徐市を東海に派遣し、仙薬を求めさせた」
つまり、紀元前3世紀、秦の始皇帝は徐福を東海の蓬莱山に遣わし、不老不死の仙薬を手に入れさせようとしたというのです。
そうして徐福は二度にわたって東海を探しまわるわけですが、どうしても仙薬を手に入れることができない。このままでは始皇帝の怒りをかって処刑させることは必至です。ということで、徐福は一計を案じました。
史記淮南衡山列伝には以下のように書かれています。
「私は海で大神に会いましたが、秦王(すなわち始皇帝のこと)の貢物が少なすぎるので、仙薬を与えることはできないということです。しかし、仙薬を見せてくれるということで、蓬莱島に連れて行かれました。蓬莱島の宮殿は霊芝でつくられ、使者は銅でできていて龍の姿をしており、後光が差していた。大神は男女の子供と技術者百人をつれてくるように命じました」
始皇帝はどうしても仙薬(不老不死の薬)を手に入れたいので、徐福に十分な貢物を持たせて再び送り出します。
しかし、徐福は貢物を携えたまま海外に移住し、二度と秦に帰ることはありませんでした。
つまり、東海の大神に貢物を渡しに行くと言ったまま、それを持ってバッくれてしまったわけです。今だったらものすごいことになっています。たぶん、古代だからできた荒技なのではないでしょうか。
まあ、不老不死の仙薬を手に入れることは不可能だと分かっていたので、最初から海外逃亡するつもりだったと思われます。
また、呉書孫権伝には以下のような記述も見られます。
「秦始皇帝は方士徐福を遣わして、男女の子供数千人を率いて海を渡らせ、蓬莱神山に仙薬を求めさせた。しかし、徐福は亶州ににとどまり帰って来なかった」
つまり、徐福は亶州というところに移住したというわけです。ではこの亶州とはどこなのか? といいますと、諸説紛々としています。
ただ、東アジア一帯に徐福伝説が残されており、その中に日本も含まれるわけですが、徐福が移住した亶州については「日本」ということで、中国人の間でも了解がなりたっているようです。
たしかに日本には北は青森県から南は鹿児島県まで、徐福を祀った神社や徐福の墓といわれるものがいたるところに残されているので、徐福伝説には事欠かないのです。(ちなみに京極夏彦
氏の塗仏の宴 宴の支度 (講談社ノベルス)
と塗仏の宴 宴の始末 (講談社ノベルス)
にはこのあたりのこともかなり書かれています)
神仙術の方士(修行者のこと。道士ともいう)であった徐福は日本に来たということになっているわけです。
では、この不老不死の薬というのは存在するのかという問題ですが、これは一応存在することになっていますね。仙薬の作り方を記した本もあるのですが、もうすでに始皇帝の時代にはその作り方や成分も曖昧なものが多くなっていたのです。それくらい昔のことなので、作り方や成分はよくわからないというのが妥当な答えでしょうか。
ただ、始皇帝が徐福を遣わせるのにいったいどれくらいの費用がかかったかということです。
これはけっして少ない費用ではなく(なにしろ男女の子供と技術者数千人を貢物に出すくらいですから)、かなりの費用がかかったに違いありません。これはなにも始皇帝だけの話ではなく、不老不死の薬を求めたあげく、国家財政を傾かせた皇帝も少なくないのです。
ですから、いわば金持ちだったからこそできる「道楽」であって、けっしてお手軽なものではないということです。秦より後の時代である唐代には、仙薬だと信じて飲みながら水銀中毒で死亡した皇帝が片手に余るほどいるのですから。つまり、金銭どころか命をかけた「道楽」ともいえましょう。
ただ、不思議なのは始皇帝が巨大な陵墓を建設していることです。
始皇帝陵
不老不死の薬を求めながら自分の陵墓を建造するというのはいったいどういうことなのでしょうか。(始皇帝は生前から陵墓建造をすすめていました)
もともと不老不死の薬が手に入らないかもしれないという覚悟をしていたのかどうかはわかりません。
ただし、始皇帝陵に埋められた幾多の兵馬俑はみな東を向いているそうです。死んだのちも不老不死の薬を求めるかのように。
仙薬(不老不死の薬)については、茶がそれだったという説をとるひともいますが、不老不死の薬がお茶ならば、それほど苦労することはないのではないかと思われます。なにか特殊な茶の木が存在するならば話は別なのですが。
それと、仙薬の材料については金属が使われているような記述も多く見かけるので、茶が不老不死の薬だというのは、どうも信憑性に欠ける気がします。
この始皇帝が行った政策で一番有名なものは、万里の長城の建造でしょうが、ちょっと目をそらすと、彼は不老不死の薬というものを大変に欲しがった皇帝として有名です。
不老不死という概念は、もともとは道教から生じたものだとされますが、なぜかというと、道教に登場する仙人というのがものすごく長命だからです。
ですから、始皇帝以前にも不老長寿を手に入れるために仙人の修行をした人はたくさんいますし、始皇帝の時代にもそのそのような修行者がたくさんいたことに想像はかたくありません。
このように道教の修行をしている(仙人の修行をしている)人間のことを方士といいます。
実は方士自体は特にふるい話ではなく、清王朝(ラストエンペラーで有名な中国で一番あたらしい王朝です)末期ですらたくさんいたのです。もしかしたら、今でもけっこういるのではないでしょうか。
その方士の中で、日本で一番有名なのは徐福だと思います。そして、秦の始皇帝が不老不死の薬を探しに行かせたのもこの徐福です。
史記秦始皇本紀には以下のような記述が見えます。
「斉の国の徐市(徐福)たちが言った。海中に蓬莱、方丈、瀛州という三つの神山があって、そこには仙人がいる……そこで始皇は徐市を東海に派遣し、仙薬を求めさせた」
つまり、紀元前3世紀、秦の始皇帝は徐福を東海の蓬莱山に遣わし、不老不死の仙薬を手に入れさせようとしたというのです。
そうして徐福は二度にわたって東海を探しまわるわけですが、どうしても仙薬を手に入れることができない。このままでは始皇帝の怒りをかって処刑させることは必至です。ということで、徐福は一計を案じました。
史記淮南衡山列伝には以下のように書かれています。
「私は海で大神に会いましたが、秦王(すなわち始皇帝のこと)の貢物が少なすぎるので、仙薬を与えることはできないということです。しかし、仙薬を見せてくれるということで、蓬莱島に連れて行かれました。蓬莱島の宮殿は霊芝でつくられ、使者は銅でできていて龍の姿をしており、後光が差していた。大神は男女の子供と技術者百人をつれてくるように命じました」
始皇帝はどうしても仙薬(不老不死の薬)を手に入れたいので、徐福に十分な貢物を持たせて再び送り出します。
しかし、徐福は貢物を携えたまま海外に移住し、二度と秦に帰ることはありませんでした。
つまり、東海の大神に貢物を渡しに行くと言ったまま、それを持ってバッくれてしまったわけです。今だったらものすごいことになっています。たぶん、古代だからできた荒技なのではないでしょうか。
まあ、不老不死の仙薬を手に入れることは不可能だと分かっていたので、最初から海外逃亡するつもりだったと思われます。
また、呉書孫権伝には以下のような記述も見られます。
「秦始皇帝は方士徐福を遣わして、男女の子供数千人を率いて海を渡らせ、蓬莱神山に仙薬を求めさせた。しかし、徐福は亶州ににとどまり帰って来なかった」
つまり、徐福は亶州というところに移住したというわけです。ではこの亶州とはどこなのか? といいますと、諸説紛々としています。
ただ、東アジア一帯に徐福伝説が残されており、その中に日本も含まれるわけですが、徐福が移住した亶州については「日本」ということで、中国人の間でも了解がなりたっているようです。
たしかに日本には北は青森県から南は鹿児島県まで、徐福を祀った神社や徐福の墓といわれるものがいたるところに残されているので、徐福伝説には事欠かないのです。(ちなみに京極夏彦
神仙術の方士(修行者のこと。道士ともいう)であった徐福は日本に来たということになっているわけです。
では、この不老不死の薬というのは存在するのかという問題ですが、これは一応存在することになっていますね。仙薬の作り方を記した本もあるのですが、もうすでに始皇帝の時代にはその作り方や成分も曖昧なものが多くなっていたのです。それくらい昔のことなので、作り方や成分はよくわからないというのが妥当な答えでしょうか。
ただ、始皇帝が徐福を遣わせるのにいったいどれくらいの費用がかかったかということです。
これはけっして少ない費用ではなく(なにしろ男女の子供と技術者数千人を貢物に出すくらいですから)、かなりの費用がかかったに違いありません。これはなにも始皇帝だけの話ではなく、不老不死の薬を求めたあげく、国家財政を傾かせた皇帝も少なくないのです。
ですから、いわば金持ちだったからこそできる「道楽」であって、けっしてお手軽なものではないということです。秦より後の時代である唐代には、仙薬だと信じて飲みながら水銀中毒で死亡した皇帝が片手に余るほどいるのですから。つまり、金銭どころか命をかけた「道楽」ともいえましょう。
ただ、不思議なのは始皇帝が巨大な陵墓を建設していることです。
始皇帝陵
不老不死の薬を求めながら自分の陵墓を建造するというのはいったいどういうことなのでしょうか。(始皇帝は生前から陵墓建造をすすめていました)
もともと不老不死の薬が手に入らないかもしれないという覚悟をしていたのかどうかはわかりません。
ただし、始皇帝陵に埋められた幾多の兵馬俑はみな東を向いているそうです。死んだのちも不老不死の薬を求めるかのように。
仙薬(不老不死の薬)については、茶がそれだったという説をとるひともいますが、不老不死の薬がお茶ならば、それほど苦労することはないのではないかと思われます。なにか特殊な茶の木が存在するならば話は別なのですが。
それと、仙薬の材料については金属が使われているような記述も多く見かけるので、茶が不老不死の薬だというのは、どうも信憑性に欠ける気がします。
